こんにちわ。denkoubouのでんさんこと、田畑悟史です。
当ブログでWEBライターを務めているエノと申します。
あの有名なリゾートホテル「星野リゾート」の知る人ぞ知る有名店、リゾナーレ八ヶ岳のステンドグラスのお店がどうやって誕生したのか?
そのルーツには、でんさんの父、異色の経歴を持つ伝説のガラス職人「田畑広」さんが1から作り上げたステンドグラスのお店の原点について、インタビュー形式で記事を書かせていただきます。
- denkoubou創設者・伝説のガラス職人「田畑広」のガラス創作の原点
- 田畑広の生い立ち、星野リゾート・リゾナーレ八ヶ岳にお店を開くまでの軌跡
- 田畑広の意思が受け継がれ、親子三代で続くdenkoubouの現在
田畑広さんの伝説を筆者は知っていた。この記事を書くきっかけ。
筆者が子供の頃、祖母の家に美しいガラス細工があったのを鮮明に覚えています。
今は亡き祖母に筆者が聞いたことも、鮮明に覚えています。
「南アルプスの八ヶ岳という綺麗な自然豊かな場所に、すごいガラスの職人さんがいるのよ。」
母が言っていたのは・・・
「八ヶ岳のガラス細工職人さんはすごい人で、おばあちゃんちにあるガラス細工もとても高価なもので大事にしてるから、触っちゃだめだからね。」
注:今は40代半ばの筆者が子供の頃に聞いた話です・・・
たまたま縁があり、約一年前、でんさん(息子の悟史さんの愛称)よりブログサイト構築の話をいただき・・・
体験工房はどちらのホテルの敷地内ですか?
星野リゾート・リゾナーレ八ヶ岳内でお店をやっています。
ん?八ヶ岳のステンドグラスの時計のお店???
筆者は記憶をたどり、母に電話しました。
「八ヶ岳のガラスのお店。おばあちゃん家にあったあのガラス細工のお店の名前って覚えてる?」
母は、名前はよく覚えていないが、「確か、でんとか言うお店で、体験教室のような工房で店内に綺麗な時計やガラス細工がたくさんあり、八ヶ岳のガラスといえば昔はそこしかなかったよ。今はわからないけど。」と言っていました。
母も、祖母と旅行に八ヶ岳に行ったときにそのガラスのお店に入り、驚きと感動を体験したのを覚えていると言っていました。
覚えてんじゃん。間違いない。あのガラス細工を作ったお店だ。
祖母は亡くなるまでそのガラス細工を大事に飾っており、光り輝く陽の当たる場所に置いていました。
今でも、祖母の長男で市議会議員を務める長男の家に大切に飾られているそうです。
しかし、30年以上前の話で、でんさんがその時にあのガラス細工を作ったとは思えません。
それは、間違いなく父が作ったものですね・・・
【田畑広】たどり着いた伝説のガラス職人 田畑広さん
筆者は、でんさんよりdenkoubouの話を聞き、ネット検索で田畑広さんの公式サイトを見つけ、プロフィールを確認しました。
1988年 八ヶ岳・小淵沢へ移住し、ステンドステンドグラス工房DEN設立
間違いない。
その人の息子さんから、仕事の依頼が来たということなのか・・・・・
筆者は、denkoubouのブログを執筆する事とWEBサイトを構築する仕事を、一番信頼できて能力の高い仲間を一人誘い、全力で引き受けることにしました。
田畑広はガラス職人の原点 八ヶ岳にステンドグラスのお店を開くまで
田畑広さんは、芸能界で漫才師をやっており、それから40歳でステンドグラス作家へと転職しました!
漫才師コンビ、「青空ハルオ・アキオ」のアキオさんが、なぜステンドグラス作家を目指そうと思われたのでしょうか?
父は若い頃、漫才師として活躍し、九州巡業の際、長崎の教会で見たステンドグラスのい美しさが忘れられないと言っていました。
ステンドグラス作家を目指したわけではなく、自宅を建てるときにステンドグラスを窓に飾るために独学でガラス細工を学んだのがきっかけですね。
田畑広さんは、長崎で見た教会のステンドグラスの美しさに惹かれ、自宅にステンドグラスを設置するためにプロを探し電話し、材料を分けてもらい、ガラスの切り方から独学で全て学んだそうです。
独学でステンドグラスを学び、プロへ転身されたのですか?
個展を開くことが多くなり、ステンドグラスの時計を作ったことが大当たりしました。今のつながる時計もそのルーツを引き継いでいます。
「人とは違うものを作ってみたい。」
それが田畑広さんがよく口にしていた言葉だそうです。
ステンドグラスの時計を作ったのが大反響で、なんとか食べていける感触がつかめたんです。
でんさんも、父親の奮闘する姿を見ており、一緒にステンドグラスの修行を始めたそうです。
田畑広さんは、昭和63年、小淵沢にステンドグラス田をオープンし、本格的にステンドグラス作家として活動を始めたわけです。
田畑広、40歳でステンドグラス作家に転職し時計を作り大成功!
そうは言っても、独学でステンドグラスの加工を学び、食べていけるまでの知名度をどうやって得たのでしょうか。
どうやって食べていけるまでの知名度を得たのでしょうか?
昭和時代の当時、大丸百貨店や三越、京王百貨店などでの個展開催には大反響で、高額な作品も売れ知名度も飛躍的に高まりました。
それで日本ステンドグラス協会の委員になり、美術館などへの作品納入実績も?
父は最終的に、日本ステンドグラス協会の副会長まで務めました。
特に、ガラスの時計は当時、どこにも置いていない珍しい物で、かなりの反響があったようです。
昭和の時代、バブルも全盛期での個展開催にはかなりの手応えがあったようです。
筆者の祖母も、その時期に百貨店の個展での作品に魅了され、八ヶ岳に旅行を計画したとのことです。
筆者の母より聞いた話だと、「金額は見ないで気に入ったものを買いたい。一生に一度の買い物。」
母は30年前の祖母の言葉を覚えているくらい、鮮烈な記憶だったようです。
田畑広、各地にステンドグラスの作品を作り残す。
筆者は、このガラスの紋章を見たことがあります。
まさか、これが田畑広さんの作品だとは、祖母が飾っていたガラス細工を作った人物と同じ人が作った物だとは夢にも思いませんでしたが・・・
友人の子供が通っていた幼稚園に、この印象深いガラス細工が飾ってあり、いつも眺めていました・・・。
こちらも、田畑広さんの作品ですか?これは近くにありよく眺めていました。
よくご存知ですね。他にも公共施設など、たくさんの場所に父の作品は残され、大切にされていますよ。
各地のステンドグラス作品は、地物住民に愛され、何十年も割れることなく大切に扱われています。
公共施設以外にも、本当にすごいのは個人の邸宅を100ヶ所以上、手掛けていることです。
100ヶ所以上ですか?それは個人から問い合わせがあり見積もりで受けるということですか?
そうですね。個人所有なので写真などは掲載できませんが、それはもう美しい作品がたくさん各地に散らばっています。
個人所有のガラス細工といえば、筆者の祖母が大切にしていたガラス細工もその一つです。
写真を撮っておけばよかった・・・少し後悔していますが、優しかった祖母がいつも穏やかな表情で見つめていたガラス細工を今でも鮮明に覚えています。
現在もdenkoubouにて、ステンドグラスの制作に勤しむ田畑広さん。
【田畑広】ガラス職人の原点 現在も続くdenkoubouに受け継がれる意思
亡き祖母も喜んでくれていると感じます。
今年70代になる母も「え?そうなの?」とびっくり仰天していました。
そして母は、思い出したように言いました。
そこには、もしかしたらでんさんもいたのかもしれません。
そのころは筆者は大学生で、母と祖母はガラスを見て一眼で「あの人の展覧会だ」と足早に人ごみの中へ・・・
母もガラスの作品をたくさん目にしたのを思い出したようです。
ステンドグラス三連時計「つながる時計」はdenkoubouが誇る技術の結晶です。
今後も、ステンドグラス作りを続け、つながる時計を世に出す作業をお手伝いさせていただきますね。
親子三代、すでに息子もガラス職人としての修行をしており、今後もステンドグラスの作品を世に送り続けていきます。
現在は、ステンドグラス・ガラス細工のお店や職人さんも数多くいて、競合もたくさんいる業界ですが、denkoubouは元祖ステンドグラス専門店と言っても過言ではありません。
元漫才師で、伝説のステンドグラス作家、田畑広さんは、ステンドグラスの作品を世の中に広めることの主翼を担った人物です。
現在、ガラス細工のお店がたくさんあるのも、田畑広さんが八ヶ岳からガラス作品を作り続け人気を博したことがきっかけです。
denkoubouは、星野リゾート・リゾナーレ八ヶ岳の敷地内にあり、人気のガラス細工体験工房として営業しています。
特に、ウェディングでの贈呈品、つながる時計は手作りで両親へのプレゼントができる看板商品として人気です。
今後も、想いをのせて文字を書いていきます。
今後のdenkoubouのブログにぜひご期待ください。
最後までお読みいただきありがとうございました。
左上 田畑広作 岳
下 田畑悟史(でんさん)作 流星 (イチロー選手モデル)
<プロフィール>
- 星野リゾート・リゾナーレ八ヶ岳にあるステンドグラス手作り体験工房「denkoubou」の記事を書いています。
- WEBライターとして月に10記事程度執筆の現役ブロガー。
- 40代の転職特化ブログサイト「Revenge job Change」を運営中です。
コメント